大阪本場の創生・発展期
大阪における卸売市場は、近世当初から天満青物市場、雑喉場(ざこば生魚市場、靱(うつぼ)魚干魚鰹節市場、木津・難波魚青物市場、京橋川魚市場等の各市場が発展してきました。
明治になると、大阪から産業が起こり、人口は急激に増え、それに伴い漁業生産の近代化や、野菜・果物の栽培技術も発展し、また鉄道など輸送条件も革新されてきました。大阪の食料需要も増加してきました。
都市人口が急増すると、伝染病が蔓延するようになります。食品衛生の立場から明治40年と明治45年に「魚市場法案」が国会に提出されましたが、どちらも成立しませんでした。
中央卸売市場法の成立
大正に入りますと、第一次世界大戦の影響で、物価が高騰しました。大阪市では全国にさきがけて公設小売市場を大正7年4月 15日に開業します。そのあと8月初めから全国に米騒動が起こりました。この時期に大阪市設小売市場において、白米の正価販売が実施され、好評を得たことから六大都市を中心に各都市に公設小売市場が開業しました。
公設小売市場が新しくできても、卸売部門が近世以来改革されていなかったので流通パイプを太くする親市場としての卸売市場の必要性にかられ、卸売市場開設法として大正12年3月末に「中央卸売市場法」が成立し、同年11月1日に施行されました。
中央卸売市場においては
(1)生鮮食料品の安全と安定した供給
(2)公正な価格の決定と公表
(3)零細な小荷主にも公平な対応
(4)迅速な決済業務
(5)公共自治体による市場運営で明瞭な取引
などが取り決められました。
大阪市議会では大正14年3月、水陸ともに至便な福島区野田(現在地)を決定し、農商務省に申請、全国ではじめての中央卸売市場として認可されました。
大阪市は1800万円の予算で着工し、昭和6年3月28日に竣工し、同年11月11日に開場しました。
戦中・戦後の混乱
昭和6年本場が開場する直前の9月18日、中国東北部で「満州事変」が起こり、日本は「15年戦争」に突入します。昭和 12年7月7日には「日中戦争」が勃発し、本場からも若い人たちが出征しました。だんだん農村や漁村で働く人が減り、生産量も減少していきます。政府では物価が上がるのを防ぐため、価格統制をはじめます。この統制のやり方になじめない仲買人が警察に逮捕されることもありました。
政府は昭和16年に鮮魚や青果などを産地から指定の消費市場に計画的に配給する配給統制を実施しました。
公定価格ができたため、中央卸売市場で値決めする必要がなくなり、仲買人制度が廃止になり、仲買人や従業員は出征したり、徴用されて工場で働く人もありました。この時点で中央卸売市場の機能はいったん停止しました。
昭和16年12月8日「大平洋戦争」になり、この時から食料配給も名ばかりになっていました。「欲しがりません勝つまでは」の時代でした。
昭和20年には、本場にも爆弾や焼夷弾が投下されるなどの戦災にあいました、木津分場、天満分場は3月13日から14日にかけての第一次大空襲で完全に消失します。大阪市は両市場を5月に廃業にしました。こうして8月15日に敗戦を迎えました。
戦後の回復期
8月16日から大きな駅の周辺にヤミ市ができました。大阪駅前、天王寺駅前、鶴橋駅周辺、野田阪神駅前等、大阪市内の20カ所近い地域でヤミ市が雨後の筍のように派生します。しかし鉄道等の輸送機関の回復も遅く、中央卸売市場には商品が集荷しません。外地にいた兵士も、ぼちぼち市場に戻ってきます。商品を集めるため漫才師をつれて漁村や農村を廻ったという笑えぬ話もあります。
昭和23年になると、復員軍人の労働力で、まず果物の生産量が増加します。公定価格と入荷量とが噛み合わず、残品の山になりました。やむなくセリをして値段を決めました。これが全国の市場でセリが復活した最初です。昭和23年10月のことです。つづいて昭和24年3月には漬物、5月には野菜、7月には鶏卵、11月には淡水魚とセリ取引になりました。政府は昭和25年3月末をもって、統制経済制度を撤廃しました。こうして昭和13年の「国家総動員法」と、戦後の「占領軍統制」の時代は終わりました。