語り継ぐ

玉神輿の誕生から創成期

天神祭は、天暦5年(951年)に「鉾流神事」が行われたのが興りだとされています。平安時代、人間でありながら神となった最初の人物が天満宮で祀られている菅原道真公(以下『管公(かんこう)』)です。彼は学問の神様として知られていますが、学問の神様としてだけでなく、平安時代の人々のあらゆる不安や不満を凝縮した「怨霊」だと考えられていました。それは、903年に管公が亡くなって以後、天変地異が相次いだことが影響しています。当時の人々はそれを管公の怨霊のせいだと考えたのでしょう。

管公は、醍醐天皇への藤原時平の讒言(偽りの悪口)により太宰府に左遷されたため、その恨みは深いものと理解した人々は天変地異の原因を管公の怨霊と重ねたのでしょう。その管公の怨霊を慰めるために祀ったのが天満宮です。949年、大阪天満宮に鎮座されて2年後の951年、人々の信仰をあつめ病気平癒の願いをこめて「星祭(七夕祭)」が始まったとされています。その星祭が天神祭のはじまりであったことは、「鉾流神事」にその名残を見る事ができます。

消失から復活

天保八年(1837年)に大塩平八郎の乱により大阪天満宮、玉神輿は消失してしまいましたが、神輿は江之子島の船大工らにより天保11年(1840年)には現存の形として復活したとされています。それは神輿の屋根飾りが納められた箱に「天保十一年 江之子島東町」と記されていることから読み解く事ができました。
残念ながらより詳しい歴史的資料は、戦火等で焼けてしまい詳しく説明する事が不可能なのが現状です。

しかし、消失という出来事があったにも関わらず、神輿は消失の3年後には現存の形として復活していることから、神輿がいかに町衆に愛されていたかが読み取る事ができます。そして正遷宮(現 大阪天満宮)も消失から8年後に現在の形に再建されていることから、 大阪天満宮がいかに人々の生活に必要なものだったかも伺い知る事ができます。

現存の玉神輿は、神輿大工ではなく船大工が作ったというだけあり、作りは非常に頑丈で、その形は「一重台輪通り屋根御神輿(鳥居・玉垣つき)というもので、材料は欅(けやき)、釘は一本も使われていないのが特徴です。
特に屋根が重たく、総重量は目方六百貫と言い、約2トンの重量を誇ります。その姿は非常に雄大であり豪華、また、情勢に屈しない町衆の誇り高きプライドが生み出した無二の芸術品ともいえる力強い風体をしています。

現在の玉神輿

玉神輿は昭和24年から市場内で働く人々によってお護りすることとなりました。天保11年の復活の際に尽力した船大工の子孫である吉川市松氏が附属商組合の組合長として市場で営業されていたことが縁でした。

その当時は、附属商組合(現在の綜合直売協同組合)が中心になり講を運営していましたが、出費がかさむ事から他の組合にも参加を求め、最終的に大阪市中央卸売市場本場市場協会が関与する現在の体制になったと言われています。

終戦後の厳しい生活のなかでも天神祭は、人々の暮らしを希望で照らし、勇気を与えてきました。天神祭はいつの日も町衆に大切に護られ、時には時代に合わせた変化を遂げながら続けられてきた伝統行事であり祭事です。

そのなかでも玉神輿、鳳神輿は祭事のなかで大切な役割を担っています。よって現在も、玉神輿は、世代を超えた多くの人々に愛され護られています。

玉神輿年表

天暦3年(949年)大阪天満宮鎮座
天暦5年(951年)「鉾流神事」(天神祭)始まる
宝徳1年(1499年)7月7日公家中原康富 天神祭礼見物(康富記)
天正15年(1587年)6月25日 公家山科言経 祭礼見物(言経卿記)
天正18年(1590年)6月25日 公家山科言経 祭礼見物(言経卿記)
慶長20(元和元)年
(1615年)
大坂夏の陣で 大阪天満宮被災 御神霊を奉じ「社中家内老若男女共」吹田へ避難
寛永21年(1644年)大阪天満宮 天満へ還座
寛永末期〜慶安はじめ
(1640年代後半)
京町堀川流末の地(後に雑喉場として発展する)に行宮(御旅所)を設定 天神祭の船渡御は毎年行宮に向かうことになり。社頭の浜(川岸)から神鉾を流し、流れ着いた所をその年の行宮の地と定める「鉾流神事」の意味がうすれたため、以後「鉾流神事」は中断した その復活は昭和五年のことである
慶安2年(1649年)6月17日「六月天神祭礼之義氏地へ御触」(「摂陽奇観」)で天神祭に惣町中より出るねり物(地車)が順番を争うので、一番地下町・二番宮之前町・三番御旅所之町と定め、他は6月21日に代表者が集り順番を決めることとなる のちに三番以降はくじ引きで決められた。
寛文末〜延宝3年
(1641頃〜75年)
御旅所は雑喉場から戎島に移転、その後明治初年までその場所は変わらなかった
延宝3年(1675年)一無軒道治  大阪天満宮の由緒と御旅所への船渡御について記述(「芦分船」)
延宝8年(1680年)一無軒道治 神輿二社難波橋より乗船し戎島の御旅所へ遷幸するさまを描写(「難波艦」)
貞享3年(1686年)僧侶独庵玄光 天神祭に漢詩を詠じる(「独庵藁」)
享保9年(1724年)3月21日 妙知焼で 大阪天満宮被災
天保8年(1837年)大塩平八郎の乱(大塩焼)により 大阪天満宮消失
天保11年(1840年)現存の玉神輿、鳳神輿ができる(江之子島東之町奉納)
弘化2年(1845年)正遷宮 現在の社殿が再建
慶応1年(1865年)6月大坂諸社神事御遠慮 天神祭陸渡御は中止ながら新撰組から「神輿渡御せよとの意見書あり」
明治4年(1871年)天神祭陸渡御・船渡御復活
明治9年(1876年)御鳳輦できる
明治11年(1878年)本社営繕中につき渡御なし(本年より天神祭は7月24日・25日になる)
明治14年(1881年)船渡御復活
明治18年(1885年)淀川洪水のため祭礼一か月延期 渡御なし
明治35年(1902年)3月25日〜4月8日御神退一千年祭
明治45年(大正一)
(1912年)
「聖上陛下御平穏祈祷祭」渡御なし
昭和2年(1927年)諒闇につき、渡御なし 社司以下17台の自動車で御旅所にいき祭典
昭和5年(1930年)食満南化の提唱により「鉾流神事」復活 7月24日朝神事斎行
昭和13年(1938年)本年から23年まで船渡御中止 太鼓も神輿もない寂しい陸渡御
昭和20年(1945年)「7月25日敵機終日頻襲の為 社頭閑散隔世の感無量なり」(日誌)
昭和24年(1949年)船渡御復活 中央市場内に御旅所 地盤沈下と不慣れで支障続発
昭和28年(1953年)船渡御復活 大川上流・桜宮水上舞殿へ神幸
昭和36年(1961年)船渡御中止
昭和49年(1974年)船渡御中止 前年のオイルショックとそれに続く不況のため
昭和53年(1978年)大篝船41年ぶりに復活
平成1年(1989年)7月24日地車曳行・宮入 ほぼ100年ぶりに復活
平成3年(1991年)3月催太鼓の「からうす」大阪府の重要無形文化財に
平成6年(1994年)5月6日・7日 オーストラリアのブリスベン市で天神祭斎行

出典
【天満人の会】『天神祭』(別冊天満人)/【天満宮社務所教学部(編)】『講論に描かれたる天神祭号(大坂天満宮社報145号)』/【米山俊直 中央公論社】『天神祭ー大阪の祭礼ー』/【上井久義 玉神輿奉賛会】『天神祭講社の研究調査』中間報告/【近江晴子】『大阪の歴史』(第54号)